読書感想文:フォークナー「響きと怒り」

 フォークナーが自著の中で最も愛した作品ということで手にした。……読みにくいなんてものではない。目眩を起こしそうな文章を半ば無理やり読み進めていった。が、三章を終えるくらいから本が手から離れなくなった。四章を読み終えると小説の持つ世界観と時間性の懐の深さに驚愕した。最後の付録「コンプソン一族」でフォークナーの小説世界の住人に対する愛をヒシヒシと感じた。

 キャディのヒロイン性云々はさておき、ジェイソンがただただかっこいい。愚かな家系を呪い、その血への抵抗に全精力を尽くす生の意志。退廃的なのではなく、ある種達観的な理性をもって家を動かし、逃げることのできない運命に最後まで抵抗する。そこに善悪なんてものは存在しない。運命からの解放を望みひたすら合理的に、しかし泥臭く動く様にどうしようもなく憧れてしまう。ここでは女性や黒人は無力だが、彼らもまた運命を自覚しながらそれに従う存在なのであり、哀愁を感じずにはいられない。そしてフォークナーは彼らを深く愛した。 ディルシー。彼らは耐え抜いた。

 

響きと怒り (上) (岩波文庫)

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響きと怒り (下) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)

 

 

アップリンク・パラジャーノフ特集上映「ざくろの色」「火の馬」

 ようやっと涼しく感じる夜が増えてきました。9月に札幌へ帰省するんですがあっちの夜は既に肌寒いらしいのでなにを着ていこうか今から悩んでいます。毎度のことなんだけども……。

 さて、今日渋谷アップリンクパラジャーノフ特集上映やるということで行ってきました。パラジャーノフはかのタルコフスキーに大きな影響を与えた映画監督として有名な人で、最も好きな映画の一つがタルコフスキーの「ノスタルジア」である僕は今日を以前から結構楽しみにしていて今朝も十分な睡眠を取って上映に臨みました。

 一作目「ざくろの色」。これはアルメニアのサヤト・ノヴァという詩人をテーマにした、映像の展開がとても静かで紙芝居的なのが特徴の作品です。冒頭で繰り返される「私の生も魂も、苦悩の中にある」というようなサヤト・ノヴァの言葉が表すように、東欧キリスト教世界の苦痛と神への服従といったテーマが、静かで詩的な映像と、長閑なようだけど緊迫した厳かな音楽と共に語られます。観ていると時間の感覚がわからなくなるようで、そう書くと絶対睡眠導入映画だと思われそうで実際僕も半ば諦めの境地でいたんですが、不思議と最後まで眠気は訪れず、むしろずっと観ていられる。全体を理解できた気はしないんですが、クセになるような不思議な体験ができる映像詩でした。

 2作目「火の馬」。こちらはざくろの色とは打って変わって、とてもダイナミックで暴力的な映像で2人の男女の不幸な巡り合わせを描いた作品で、ざくろの色よりはずっと映画らしい映像なんですが。結構ぐっすり寝ました。どうしてだろうね?いやはや、さすがタルコフスキーの師です。恐れ入った。しかし映像の中で激しく動く東欧の冬の山々の風景は凄く綺麗だったし、音楽もやはり攻撃的かつ厳かな印象で、ストーリーは掴めないながらも映像美は感動的なものでした(こなみかん)。

 どちらもかなり新鮮な映像体験で大いに楽しめる上映でした。ただ、この種の監督作品の多くに違わず、今回の2作品もキリスト教世界の雰囲気に大きく支配された映画であるので、その方面の知識がもう少しでもあればもっと楽しめたし、映画と宗教両方面への理解も深まったんだろうなと思います。(知識があるだけじゃ無理なことはわかってるんだけども…。どうすればいいんだろう?)やっぱり勉強が必要ですね。。。

 あとどうでもいいですが、渋谷に行ったついでにHMVを物色してデイヴ・メイスンの「アローン・トゥギャザー」のLPを掘り出してきました。伸びのあるスワンプロック最高や!これぞバイタリティの発露!これぞ音楽!苦痛と服従なんていらんかったんや!

 

ざくろの色(デジタル・リマスター版) [DVD]

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アローン・トゥゲザー

アローン・トゥゲザー

 

 

村上春樹「国境の南、太陽の西」再読

 定期的に春樹の文章を自然と求めてしまう。個人的に春樹作品で好きなのは「風の歌を聴け」の世界の一連の作品、特に「ダンス・ダンス・ダンス」のようなリズムが感じられる作品で、春樹を読みたくなるときは大抵これらの再読なんだけども今回のはなぜか「国境の南、太陽の西」だった。

 再読後の感想として、やはり「ダンス・ダンス・ダンス」の世界観が1番自分の憧れをかき立てるという意味(?)で1番好きな作品だなと感じるのと同時に、今現在自分が春樹を求めるときに欲していたのは「国境の南、太陽の西」だったんだと感じた。「自分」という可能性に支配されることでしか生きることはできない、そして生きているのは砂漠だけ、島本さんの「死」の幻想。これらが、自分が生きる上での軸にしている生への肯定と同一線上にあるように感じた、それだけの話。

 

 恐ろしくどうでもいいんだけどもナットキングコールは個人的に特別な歌手で、それは春樹の影響とかではなく多分槇原敬之(昔好きだった)が雑誌のインタビューか何かでルーツとして挙げていたことがきっかけのはずなんだけど、今回の再読でナットキングコールの存在感が記憶よりずっとすごく大きくてなんだか不思議なかんじだ。でも同じ雑誌で槇原が好きな本にW.サローヤンとかと並べて春樹を挙げていたからやっぱり(?)同じ線上にいる人種なのかもしれない。

 

 ちなみにナットキングコールは「アフター・ミッドナイト」も文句のつけようがない名盤だけどやっぱり「メリー・クリスマス」が歌手としてどうしようもなく特別な感があるね、deck the hallsをサラッと自然に歌うのって実はこの人以外に不可能なんじゃないか。

 

 

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

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メリー・クリスマス

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読書感想文:フォークナー「八月の光」



まとめ

新潮文庫許さんからな


フォークナーの八月の光(加島祥造訳・新潮文庫)を読み終わったので感想書きたいんですけど、まず文庫本の裏のあらすじみたいなのあるじゃないですか。
臨月の田舎娘リーナ・グローブが自分を置き去りにした男を求めてやってきた南部の町ジェファスン。そこでは白い肌の中に黒い血がながれているという噂の中で育ち、「自分が何者かわからぬ」悲劇を生きた男ジョー・クリスマスがリンチを受けて殺される‐‐素朴で健康な娘と、南部の因習と偏見に反逆して自滅する男を交互に描き、現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品である。  新潮文庫「八月の光」裏表紙より)

このようにあらすじでは2行目にジョー・クリスマスという男が死ぬんですけど。裏表紙にこう書かれたら当然その死が前提になって物語が進んでいくんだろうな、とか思いながら読むじゃないですか。でもなかなか死なないんですよクリスマス。半分過ぎても死なない。ようやく死ぬのが、

「やっぱりあんたはまだ聞いてねえんだな。一時間も前さ。あの黒ん坊、クリスマス。あの野郎が殺されたのさ」  (p574)

p574!!!小説は全体で656ページです。周りの人間達の縁や彼らの過去に絡まれて、クリスマスは自分の黒い血が持つ自身の運命への決定的な力に抗おうとして死ぬんです。それは滑稽かつ壮絶な死で、普通に読み進めて辿り着いたなら息を呑んで一旦本を閉じて文章を噛みしめるべきクライマックス。ところが新潮文庫のせいで僕とおそらく他の大部分の一般的な読者は「あーここで死ぬか」くらいしか感じるものがないんですよ。あとがきもめちゃくちゃサラッとしてるし勘弁してくれ。

でもネタバレを抜きにしても面白かったです八月の光。フォークナーを読んだのは今回が初めてで、最近自分の趣味はswampな方向なのかなと思ってきたのでアメリカ古典文学を探して、例のあらすじに惹かれて読み始めたんですけど。人物それぞれに作者の愛を感じるんです。人生をかけて自分の血の運命的な力に抵抗するクリスマスをはじめとして女性の「受容」という力を体現するリーナ、クズ野郎ブラウンといった登場人物がそれぞれの過去に囚われながら生きる様が凄く力強い。小説の中心になる物語は1930年ごろの八月中の11日間の出来事なんですが、その進行中の時間と同時に人物達の過去が鮮やかに描かれます。その描写が物語をグンと深く広げていって、どんな登場人物も憎むことができない。

終盤の展開にはページをめくる手が止まらず、今までなかなか出会えなかった力強い読書体験を得ることができました。ただ個人的に心残りなのは、物語にキーワードとしてアメリカ南部・北部の人々の間の確執とキリスト教が深く関わるので、知識の浅い自分はところどころで引っかかることがあったので、その背景の理解があればもっとはっきりと物語の手触りを感じられたんだろうな、ということですね。今回フォークナーへの興味を持つことができたのでこれを機会にこの分野の知識を身につけていきたいですね。

八月の光 (新潮文庫)

八月の光 (新潮文庫)

大隈講堂の新宿ドキュメンタリー企画が凄くよかった

早稲田の演劇博物館で公開中の「あゝ新宿展」の一環として大隈講堂で開催された「新宿1968-1969 ドキュメンタリー/ハプニング/ジャズ」がめちゃくちゃ面白かったので感想書こうと思います。


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今回田原総一朗がTV東京(当時は東京12チャンネル)のディレクターだったときに関わったドキュメンタリー作品が上映されて、それと関連した当時の新宿の特別性について田原や山下洋輔宮沢章夫やその他の豪華なゲストで語り合う、といった企画でした。

上映された作品は

  1. 1969テレビ東京バリケードの中のジャズ〜ゲバ学生対猛烈ピアニスト〜」
  2. 1968「木島則夫ハプニングショー
と、あともう一つ、田原総一朗がフーテン(新宿のヒッピー的な存在)に密着した作品があったんですが題を忘れました。


バリケードの中のジャズ

この作品は、学生運動真っ盛りの早稲田大学で、当時熱狂的人気だった山下洋輔が学生からの誘い(挑発)に乗り、その学生と敵対するセクトの陣営の中に持ち込んだピアノを演奏する、学生はセクトを超えて全員がジャズに酔いしれる……という内容で、当時の大学の溢れんばかりのエネルギッシュな雰囲気が良い作品なんですが、

実はこれ、山下洋輔がピアノを弾くところまで田原総一朗のヤラセなんです。人気ピアニストを撮りたい田原総一朗が「ピアノを弾きながら死にたい」っていう山下洋輔の言葉を引き出して「それ面白い、やろう」ってことでスポンサーの許可も得て、仲の良い全共闘の学生と組んで当日ゲリラ演奏を実行する。

このトークで田原総一朗が「視聴者はハプニングを期待してテレビを観るから我々はそれに答えなきゃいけない。ヤラセってのは一見ハプニングと逆説的な存在に見えるけど、ヤラセをやっていくなかで撮る対象は必然的に自分の演技をしなければならない。その演技の中でその人の内面、本当のことが現れてくる、それがハプニング」みたいなことを言っていて印象的でしたね。ドキュメントと言っといてそんなのアリかよ、と思いますがすごい合理的な番組づくりだとも感じてしまう。僕の中で田原総一朗って「人の話を聞かない、やたら発言力の強い老害津田大介」的なイメージが強かったんですけど今回でそのイメージが一変しましたね。人を動かすというか圧倒するのが上手い人なんだなと。


「木島則夫ハプニングショー」とその他1つ

僕が特に感動したのはこの2つの作品で、ともに新宿のフーテンが関わる作品です。

ハプニングショーでは当日の朝刊の広告に「今夜10時半に歌舞伎町広場にお集まりください」という番組広告を載せてその現場のようすを生中継するんですが、木島則夫が現場の圧倒的な数の若者をコントロールできずに喫茶店に逃げ込んで若者に対する感情を吐露していきます。その中で近くの若者に「面白いことは何か」とインタビューするんですが、その若者が「面白いことはない。だけど新宿に行けば何か面白いことがあるんじゃないかと思って新宿に集まる」ということを言うんですね。

羨ましいと思いませんか?新宿に行けば何かあるっていう期待。僕は比較的多趣味な人間なので日々の楽しみに事欠くことはあまりないんですけど(金を欠くことは度々あるけど)、当たり前だけど趣味って自己完結的な楽しみでしかなくて。期待とか可能性が直に感じられる場の存在って凄く凄く羨ましい。

ハプニングショーももう一つの作品も、そういう「場の力」みたいなものが溢れ出てくる作品でした。


「1960年代の新宿」という場

映像ではフーテン達がいかにも暇そうに、だけど楽しそうに新宿の広場で意味不明な行動をしたり海辺をのたうち回ったりするんですけど。1960年代という時代と新宿という場がもつあらゆる方向への可能性と自らの若さが持つバイタリティに酔っ払ってしまっているんだと観ていて感じたんですよね。
今の時代に希望がない、なんて言ったら怒る人たちはいますけど、行く末がもう大体見えてしまっている閉塞感って皆感じているんだと思うんです。それはなんとなくクリスタルな時代から始まって段々と感じられるようになってきたもので、これからどんどん可視化されてくる。
そういう諦めの中を僕らが生きている中で一体どんな希望も持つべきなんだろう?ということを最近特に感じていたので、今とは逆の意味の「これからどうなるかわからない」という雰囲気の新宿の映像はとにかく新鮮でした。

演劇博物館の「あゝ新宿展」は8月までやっているので興味のある方は足を運んでみるといいと思います。面白いですよ!