人がクスリをやる話が大好き

なんでこんなに面白いんだろうか。

 

不謹慎なのは承知してるし傍から見ればガキみたいだと思われるだろうけど、それでも人が薬物乱用で捕まったり捕まらなかったりする話を聞くとやっぱりウキウキしてしまう。そう、ウキウキというほうがしっくりくる。そしてこのウキウキは、いかにもなヤバい人が案の定やってたり精神疾患の方々が薬漬けになったりする話ではなく、普通の人や能力・才能がある人が薬に溺れる話に限られる。それ以外はただの悲劇かゴシップだ。

 

つまるところ、その転落は喜劇だ。

ウィリアム・サローヤンの「パパ・ユーアクレイジー」という父親と子供の生活を素朴かつ詩的に表した小説があって、その中の「カップ」という僕が大好きな章がある。

 クリスマスの次の日は変な工合だった。なぜかというと、それがクリスマスの次の日だったからだ。(略)僕がクリスマスに何を期待し、何を得たのか、というなら、さあーー僕は何かを期待した。僕が毎年そうするように。でも僕は自分が何を期待したのかわからない。ただ何かを期待しただけなのだ。(略)僕は自分が欲しがっていたのはプレゼントではなかったと思う。では僕は結局何を得たのか、というなら、僕が得たのは結局プレゼントだった。そして僕は、僕が貰ったプレゼントが気に入りさえした。

 一日中、僕の父の友人が彼の家にやってきては、彼と酒を飲んだ。男たち、女たち、子どもたちをとりまぜて、多分三ダースばかりの人たちが訪れては帰っていった。なぜかというと、それはクリスマスの次の日だったからだ。誰もが自分自身を笑っていた。(略)みんなできるだけ早くクリスマスを追い払おうと懸命になっていた。まるで、すべてが、必要ではあるけれども厄介で迷惑な行為、あるいは何かの間違いであるかのようだった。

(引用:サローヤン「パパ・ユーアクレイジー新潮文庫

薬物乱用のニュースを見るときのウキウキは上の引用の連想と似ている気がする。期待に答えることなく進む現実を自覚してその中の自分自身を笑うピエロ的なものと、薬物乱用。

もちろんその現実だったり薬物乱用自体は悲劇的なものでしかない。当事者は現実の退屈から逃れることなく、あるいはさらなる地獄を見ることになる。

けれど物語として見れば、僕はそこに確かに喜劇的なものを感じるし、この感覚は共有できるものだと思う。それが想像力の欠如だとか言われても(実際そうかもしれないが)、自分のほかにもこの現実のどうにもならなさとそこにいる自分を笑うピエロがいることを確認できること、それがこの喜劇的なもののひとつの源なのかもしれないと思う。